森本氏の版画は、古今はじめての手法という珍重の有様から出来される版画だ。
その版木をみたら、薄彫りのように盛り上がって、反彫刻躰になっているのは吃嘆した。
この手法を用いないと、この貴重な作品が生まれないのだと思うと、その作行きのただならないことを想うのだ。
主にして、仏躰を扱っているが、これも当を得た手材だと感心尽きない。
世界には、いろいろ万法の板行きがあっても、森本氏のような、紙色を生かすという、生かすというよりも、
そういうことによって成る版画の発見は、美事以上な新よと想う。
この創作は、正に森本木羊子の独壇場であってこそ成就する大執法だ。
森本氏の版画が、独自だと言うところから、出発したことの偉大は版画の偉大であって、
森本氏の、あづからざるものかも知れない。それ程森本氏は自分を仏躰に入れ切っているとも想われる。
こういう新しく、こういう独法の仕業は、自らを捨て切って生まれることから、成業するものにちがいない。
それは、森本氏の偉大は、また版画の偉大だということを示していることなのだ。(原文ママ)
昭和三十年九月一日
荻窪、白山神社膝元、書斎に記す